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2008年9月19日 (金)

Simon& Garfunkel / Sounds of Silence

私は、Simon& Garfunkelの大フアンである。フアン歴は、何十年にもなるので言いたくありません。

そのS&Gをこの世に最初に知らしめた記念すべき曲である、サウンド・オブ・サイレンスについての、ある書き込みを読んだ。

つい最近"Sounds of Silence"を聴いていると癒されます”という旨であったと思う。

ショックだった。

この曲で最も衝撃なのは、以下の歌詞ではないだろうか。

"Fools!" said I  You don't know
Silence like cansor grows
Hear my words that I might teach you
Take my arms  that I might reach you
But my words like silent drops fell

人がどのようにその曲を聴こうが自由であることはわかる。が、それぞれの歌には作者の意図と聴き手が作り上げる歌の世界があるはず。作者の意図が強ければ強いほど、そのメッセージは作者 ーーー> 聴き手への一方方向なることが多い。このSounds of SilenceはPaul Simonが無名時代に歌いながら英国を旅していたときに、心の叫びとして作られた歌である。だから、引用のごとく激しい言葉が使われているわけです。「ばか者、お前たちは何もわかっていない。」と叫び、「私の言葉を聞け」に近い表現になっている歌である。

書き込みをしたお兄さん。もっと何度も、この歌を聴いて、よく考えてください。

"Sounds of Silence"には様々なVersionがあります。最もヒットした、エレキ演奏のもの(Second albumのtitle曲)、デビューアルバムのアコースティックバージョン、卒業のサントラバージョン、Paul Simon Song Bookのソロバージョン。67年のLive From New Yorkでの
Version、Live Rhymin'でのソロバージョン、81年のセントラルパームコンサートのアンコールで歌われたときのもの・・・。

643
個人的に好きなのは、なんといっても、Paul Simon Song Bookのソロバージョン、音楽的には卒業のサントラバージョンが最も美しいと思う。

そういえば、81年のセントラルパームコンサートのアンコールで歌われたときにも、この"Sounds of Silence"で、手拍子をしている連中が録音されているけど、そういう人にはならないでくださいね。

蛇足ながら、もう一つ。誰もが知っている童謡に、「シャボン玉」というのがある。

  シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ
  屋根まで飛んで こはれて消えた

  シャボン玉消えた 飛ばずに消えた
  生まれてすぐに こはれて消えた

詩人の野口雨情が、生まれてすぐの子供を亡くした経験を歌ったものと言われています。

2006年9月 2日 (土)

小室 等の魅力

谷川俊太郎の詩のなかで、私が最も好きな詩のひとつが、「宿題」

(引用)
目をつぶっていると
神様がみえた

うす目をあいたら
神様はみえなくなった

はっきりと目をあいて
神様がみえるかみえないか
それが宿題
(引用終わり)

この谷川俊太郎の世界を、小室等が歌にする。このコンビが最も輝いていたのが、「東京23区コンサート」のアルバムであるように思える。私も、地元杉並区ではなかったが、となりの中野区ゼロホールで行われたコンサートに行きました。1979年のことです。

ゲストの方のコメントを聞いていると、当時の東京の生活風景がいろいろなところに語られていると思います。ゴミの問題や、アパートに一斉に干されている布団の風景。歌がそれらの風景を醸し出しているかのようなすばらしさ。ただ、残念なのは全28曲が東京の23区のどこで収録されたものなのかは、わからない。講談の田辺一鶴師匠のコメントに「蔵前通り」とかの浅草の近くの地名がでてくるので、台東区でのコンサートだとわかる程度。しかも、これらは、東京の風景とか、講談師は浅草に住んでいるという東京についての常識が前提となって始めてその、醸しだされている風景を共有できるのでは・・・。

Photo_2

ただ、そんなマイナスのところは、全て吹きとんでしまうくらい、すばらしいアルバムであることは、間違いない。

小室等って、歌はうまくない。時々、声が漏れる歌い方。ギターのテクニックもそれほどない。いわゆる、基本のギターコードと演奏方法がマスターできていれば、このアルバムの全曲のコピーは簡単。

でも、どこか魅力のある歌い手だと思う。また、それも不思議な魅力。彼はほとんど作詞をしない。冒頭で述べた、谷川俊太郎の詩を小室等が曲をつけると彼の独自の世界ができあがる気がする。

一例をあげると、このアルバムに収録されている、「守らずにいられない」(谷川さんの詩の原題は、「夫から妻へ」)は、詩で読むと、むしろ淡々とした、しかし力強さが伝わってくる感じ。小室さんが、歌うと、しみじみと聴こえる。アルバムの中で、上条恒彦氏が、「小室さんのこと“守らずにいられない”は何度も聴いているけど、なんか、よくなったなあ」とため息混じりに漏らしていて、歌うことによって、歌の中身に時の流れを強く感じさせる気がしてならない。

(引用)
おまえをみつめていると
私は男らしさをとりもどす
おまえの手はひびがきれ
おまえのくちびるのわきには
小さなしわがきざまれている

おまえの心は日々の重みに
少しゆがんでいるかもしれない
けれどおまえを みつめていると
私はやさしさをとりもどす
一日の新鮮さをとりもどす

おまえをみつめていると
おまえを守らずにいられない
あらゆる暴力から
あらゆる不幸からおまえを守り
こんなにも女らしいおまえを
こんなにもゆたかなおまえを
私は愛さずにいられない

歌って本当にすばらしいと、素直に教えてくれる珠玉の作品である。

2006年8月 8日 (火)

Linda Ronstadt

Photo

iPodはいろいろな曲を手軽に届けてくれるので、最近、Linda Ronstadtの"Hasten Down the Wind"のアルバムを聴いた。そして、すぐ、彼女の日本公演を思い出しました。武道館で79年3月だったか?

一曲目は、やはりというか、"Lose Again"。今でも覚えているのは、最後の歌詞、Lose againと歌うところを, 本当にゆっくり歌って、ステージならではの仕上がりにしたこと。初来日の興奮とともに、当時、絶頂期だったリンダだけに、観客はあの、武道館全体が割れんばかりの拍手だった。私も例外では、なかったス。

この時、私はというと、チケットは買うものの、なかなか前の方の席とはいかず、双眼鏡の愛用者。確か、"That will be the day"で、踊りながら歌ってた時のリンダのウエストは、そんなに細くなかったように見えました。もともと、美人で売っていた歌手ではなく、どちらかというとその愛くるしさが人気をはくしていたわけだから、特にこの辺は関係ないと言っておきます。

Karla Bonoffの“Someone to Lay Down Beside Me”がピアノソロのあとに、当然のように歌われったっけ。この曲を聴いていると、リンダってそんなに男に甘えるタイプの女性なのかなあと思いつつ、それはないでしょうと言うのが私の想像。

もちろん、Warren Zevonが書いた、アルバム同名曲の“Hasten Down the Wind”もすごく良かった気がします。ただ、この曲は、いったい男が女に歌っているのか(Warrrenのオリジナル)、女が男に歌っているのか(リンダの場合)、実は、よくわからないのです。

ただ、私も、リンダが当時のパンクロック路線を狙った、Mad Love (1980)のアルバム以降は彼女から、遠ざかってしまったため、80年代の彼女は良くわかっていません。

個人的には、オリビア・ニュートン・ジョンのような歌い手よりは、断然好きでした(もちろん、オリビアも長い間、クリフ・リチャードの下で苦労した人ではあるものの)。

2004

リンダが最近、Hummin' To Myself (2004)というアルバムをReleaseしているので、今度
聴いてみます。iPodに取込んで・・・・。でも、よく、考えて見ると、As Linda Ronstadt was born in 1946, she released this album at the age of 58 and now this year, she is sixty years old!!!

2006年5月 4日 (木)

高野悦子さん2

高野悦子さんの1969年1月2日の日記に、こんな一文がある。

(引用)
私は慣らされる人間ではなく、創造する人間になりたい。「高野悦子」自身になりたい。テレビ、新聞、週刊誌、雑誌、あらゆるものが慣らされる人間にしようとする。私は、自分の意志で決定したことをやり、あらゆるものにぶつかって必死にもがき、歌をうたい、
下手でも絵をかき、泣いたり笑ったり、悲しんだりすることの出来る人間になりたい。
(引用終わり)

また、同じ年の2月2日の日記には、

(引用)
(デパートの)眼鏡売場での鏡の中のその姿、顔はバサバサで不潔で眼鏡をかけた(私の)姿はこっけいそのものであった。同じ売場に隣り合わせた中年女の舶来がどうのこうのという話を軽蔑しながらも。その堂々とした風格を羨ましく思う。
(引用終わり)

30日の日曜日、娘と家内の家族3人でデパートへ行った。娘が洋服を買いたいというので、銀座プランタンの2階、3階を引き回された。ただ、財務省として支払いをするために。

あらためて、女の子のファッションを見てびっくり。まず、アイテムがすごい、カットソー、パンツ、ジャケット、ブラウス、そして帽子にアクセサリー。これらをどうやって、組み合わせて自分らしさを作っていくのか。場合によっては重ね着もあり、また、重ね着も表に着るほうは裏を見せるためのデザインというものもある。

対して、男物はいたって簡単。ビジネスで言えば、ワイシャツ、ネクタイ、スーツとせいぜいジャケット。もちろん、それぞれ、それなりのおしゃれな着こなしのためのポイントはあるものの、女の子のものに比べたら、数が知れている。

でも、だからといって、女の子がファッションの天才かと言えば、たぶん、NO。彼女らは、ファッション雑誌を見て、自分の気に入った組み合わせが最初からあり、それを基本に、場合によっては組み合わせを変えたり、アイテムを増やしたりしているだけ。要するに
マスメディアに踊らされているだけ。高野悦子さんが言っていた、“プチブル”ということ。でも、いまや、そういう女の子しかいないのだ。それが、当たり前の世界なのだ。

実は、「あいのり」という番組きらいです。特に詳しく見たわけではわけではないので、詳しい人に怒られそうだが、でも、考え方は簡単。今の、マニュアル世代の典型番組。こんな風に恋愛してみたいと思っている娘のハートをくすぐるから人気があるのだと思う。所詮、テレビ番組で踊らされながら番組は進んでいるのだと思えば、面白くもなんともないと思うが如何に。テレビ番組みて、真剣に自分の色恋沙汰の参考にしようとするところに、今の若い連中のあやうさ、いいかえると、自分で開拓しようとしない意気地のなさが見える。大事なことは、直向に愛する人に向かっていく方法をみつけることが大事なのではなく、あなた自身が行動を起こす事。そこでは、もしかしたら失敗するかもしれない。

今の時代、何でもあたえられている。でも、そのひとつ、ひとつを批判的に見る眼が必要なのでは。その批判的な生き方こそ、多様な価値観を生み出せるのではないでしょうか? もし、人と同じファッションが嫌だったら、今度こんな生き方をしてみてはいかがでしょうか?

高野悦子さんは、苦しみながら自分の道を一生懸命さがして生き続けた人。ちょっと、それに疲れてしまった瞬間にこの世からいなくなってしまった気がしてならない。想像ですが・・・。彼女は確かに挑戦し続けた人だと思う。挑戦する人はマニュアルより向かって行く気持ちのほうが断然強い。若い時はそれが一番大事。だって失うものないんだもの。

失敗した時の涙って、絶対忘れないと思う。その涙の思い出が人の心を作り上げていく気がします。

半世紀生きてしまったオヤジのひとり言。

2006年4月13日 (木)

Bob Dylan--- No Direction Home

No_direction_home

マーティン・スコセッシ監督のDylanの自伝映画、 No direction homeを見た。実は昨年の11月21日にB/Sで放送されたのを録画だけして、見るのをサボっていました。

ジョーンバエズの言葉が気になりました。「あんなにすぐにどんどん変わる人を知らない。」ディラン/バエズコンサートの時、いつも彼女はBobに合わしていたとのこと。

Times_they_are_achangin

でも、"When the ship comes in"はとても印象深い曲。ディランは何かを喩えた歌では、とてもすごい才能があるのだと思う。誰かが、彼の歌を解釈してしまう。本人の意図がどうであったかは別として、解釈されることにより、彼への偶像が高まるような気がします。「時代は変わる」のアルバムに"When the ship comes in"と歌われば、アルバムのタイトルに準えて自然と解釈してしまう。そして、ディランはすごいとなる。

ビートルズの出現がDylanのロックへの傾注に影響したことは間違いないものの、映画のワンシーンのなかで、彼がTopical songの歌い手ではないのかという記者の質問に、「自分は一度たりともそう思ったことはない。」という答えは、どうも彼が何を考えて
いるのかが不明。

Bringing_it_all_back_home

66年のNew Port Folk Festivalでエレキギターを持って歌ったDylanが散々野次られてステージから引下り、アコースティックギターを持って再登場し、"It's all over Baby Blue"を歌ったのは音楽史的にはFolkからRockへの流れとして象徴的であると思う。

しかしながら、公民権運動やベトナム戦争反対について何らかの関わりをもってきたDylanであり、68年のシカゴ民主党党大会までとその後の反戦記念デーが制定となる69年までが、それらCounter-cultureの最盛期であったにもかかわらず、Dylanがこれらと距離を置いていた理由がよくわからない。

Rolling_thunder_review

74年にニクソンのウオーターゲートの時は先頭に立って、"Sometimes, President of United State must be naked (It's alright, Ma.)と叫ぶように歌っている姿と相容れない気がします。穿った見方をすると、常に時代に敏感で, 何をすれば歌い手としての彼に聴衆が耳を傾けることに熱心であっただけ、元々政治的信条もないし、人々のために戦うということも本人の肌には合わない。ただ、それだけの事? 私にはどうもわからない。

Blood_on_the_tracks

でも、その後70年代の、「血の轍」のアルバムはすばらしい、"Before the flood"の"Like a Rolling Stone"はいくつか収録されている同曲の中でも最高の出来栄えだと思う。

Before_the_flood

私は、78年の来日時の最終日のコンサートを見に行きました。武道館へ。実は特に印象ありません。Dylanが日本で歌うことにはどこか、違和感があった記憶があります。

2006年2月20日 (月)

Eric Andersen

P1010001_edited 昨年の8月にエリック・アンダースンが来日していたそうで、まったく知らず。知っていればコンサートいったのにと、一人悔やむ。

最初にエリックを聴いたのは、もう30年以上前。自分の年齢を吐露しているようなものだが、“Blue River”が最初の出会い。ギター一本で旅する男のロマンを感じさせるアルバム。

そして、76年に初来日した時に、目黒の杉野講堂へ聴きにいった (今、杉野講堂ってまだあるのかどうか知らない。)。

オープニングは"Come to my bedside"。日本でも岡林だとか中川五郎とか、昔のフォークシンガーたちがよく、邦訳して歌っていました。

そして、いまでもよく鮮明に覚えているのが"Thirsty boots"を歌ってくれたこと。66年の作品。ステージで歌う前に、エリックはこの歌を、フィル・オクスに捧げると言って歌っていました。この年の4月にフィル・オクスが自ら永遠の旅に出て帰らぬ人となってしまったからです。

betrue05 BlueRiverの次のアルバム"Be True to You"(75年発売)からは、Time run like a freight trainを今は懐かしきOpen D-tuningで弾き、さらにMoonchild River Songそして、Tom Waitsのデビューヒットシングルとなった"Ol'55"を歌ってくれました。Blue Riverからは、"Shiela"(この曲は何度聴いてもコード二つしか出てきません。)。あとの曲はさすがに覚えていません。確か、九州の福岡公演の海賊版が売り出され、結局注文しなかったので入手できず(誰か買った人いませんか?いるわけないよね。もう、30年も前のはなしだもん)。

この年の夏から初秋にかけて、私は、黄緑をベース色とした"Eric Andersen Japan Ture"というTシャツを自慢げに毎日のように着てました。はっきり言って、誰も知らないという状態でしたが、これこそまさに、自己大満足の典型というやつです。

sweetcvr 翌年もエリックは来日。"Sweet Surprise"の来日記念盤も発売。さらに、その次の年の77年にRolling Coconut Reviewという、今は誰も知ってそうにない環境を守ることを意図としたコンサートで、アメリカのシンガーソングライターを中心にたくさんのミュージシャンが来日(Jacson BrowneもDavid Lindleyといっしょに来てました。)しました。

このころ、実は私は、なんと学園祭でギターを弾いて歌っていたのです。

話が、エリックからどんどん、離れるので今日はここまでです。

2006年2月12日 (日)

「ラブソングス」岡林信康

LovesongsOka

私が本格的に岡林信康を聴くようになったのは、77年に発売になったラブソングスからです。Mr.Oのバラッドに感激したからです。ロック、フォークについては、海外の物を中心に70年ごろから聴いていたので、岡林の名前も、しばしば聞いていましたし、「山谷ブルース」も「チューリップのアップリケ」も、何度か聞いたことがありました。

でも、本格的に、注目するようになったのは、あくまでも77年からです。その後、「セレナーデ」、「ストーム」と3枚のアルバムを出していた時期に、よくコンサートにも通っていました。特に、ラブソングスのリリース後のコンサートの時は、ギター1本でステージで歌ってました。確か、「チューリップのアップリケ」の歌の時に、昔のプロテストソング時代のことを
やじる声がかかったときにはステージ内に一瞬、ものすごい緊張感が走ったのを覚えています。

Mr.Oのバラッド中にこんな歌詞があります。

    あっという間に人気者
    ところがそこで怯えだす
    見上げられてるような気に
    すごい男ならねばと
    背伸びとポーズで強がって
    ばれる怖さに逃げたんだ

    中略

    いつも怯えた厚化粧
    変わる景色に溶け始め
    季節が二つめぐるごろ
    無理をしなくていいんだと
    何かに抱かれれているようで
    ある日子供のように泣く

    それから何か楽になり、
    錆びたギターを手に取った
    俺は駄目だと怯えている
    そんな俺さえかわいくて
    一人の弱い当たり前、
    錆びたギターを磨き出す

フォークの神様と拝められ、その虚像と実際の自分の実像との乖離に耐え切れなくなり逃走。でも、この歌の“一人の弱い当たり前”というフレーズが好きで、実は岡林をよく聴くようになったのです。

私はこのラブソングスよりさかのぼること73年に発表された「金色のライオン」も好きなアルバムのうちの一つで、この「ラブソングス」で始まった岡林への興味が自然とこのアルバムにも自分の目を向けさせたのかもしれません。このアルバムの中の一曲、「26番目の秋」は当時自分でも歌っていました。

この話もやっぱり遠い70年代のものです。

2006年2月11日 (土)

高野悦子

 

Hatachi

Mixiのコミュニティでなんと、高野悦子にぶち当たりびっくりしてしまいました。以下、「二十歳の原点」の著者について思ったことを書きました。

もう30年以上前に読んだ記憶だけで書きます。

とても感動した覚えがあります。読んだ後、「なんで死んでしまったんですか。」と、まず思いました。

確か最後のページだと思いましたが、そこに書かれた詩が衝撃ともいえるものでした。

私は個人的には、アメリカの公民権運動、プロテストソング、カウンターカルチャー、いちご白書、ボブ・ディラン、フィル・オクスと、この時代を象徴する言葉が次から次へと浮かぶぐらいに、親しんだものです。

若者たちの純粋な思いが社会を変えていくんだという、その決意で権力にぶつかっていく時代がありました。自分たちの主張を社会にぶつけていった時代であったとも言えます。その主張が権力と対立した結果が、しばしば暴力闘争という形になったのだろうと思います。私自身はその時代の渦中にいたわけではないので、評論的な書き方しかできません。私が高校1年の入学式の時に、何人かの学生運動の人たちが入学式の最中に体育館の外で、アジっていたの記憶しているくらいです。大学へ入学した時も、学生運動関連の立看板は見かけたものの、大きな勢いはすでに失いつつあったと頃であったろうと思います。

本来ならばもう一度読み返して書くべきことではあるものの、印象に残っていることは彼女の一生懸命な生き方です。確か、
ぶつかっていっても、ぶつかっていっても跳ね返されてしまう権力の力に疲れてしまいそうになった一文があったような
ないような・・・。

全共闘による学生運動を浅間山荘事件を引用して総括することと、高野悦子さんの日記における生き方を論ずることは全く別のものと、私は考えます。純な心で生き続けた彼女の日記に嫉妬しているような解釈も、あまりいただけない気がします。

また、仮に、彼女の失恋が自殺の原因だったとしても、彼女の精一杯の生き様を日記から感じた私を含めた読者は、涙なしには読めませんし、その感動が私たちひとりひとりのどこかに残るものであるぐらい、彼女の生き方は光っていた気がします。

2006年2月 6日 (月)

John Denver

  ジョンデンバーのアルバムを聴いた。

74年のユニバーサルアンフィシアターでのライブアルバム。ウオーターゲート事件を経たアメリカが少しずつ安らぎをもとめていた時代にぴったりの、心を洗われるようなアルバム。私もこのアルバムの収録曲である、"My Sweet Lady"と"This old guitar"はコピーして自分でも歌っていました。

同時にジョンデンバーの伝記も読んだ (John Collis, 1999, "John Denver, Mother Nature's Son)。P1010002_edited1997年に飛行機事故で死亡している。

事故の原因は、単純なオイルの確認の忘れ。燃料タンクが二つあり、一つの燃料タンクの残量が少なかったにもかかわらず、二つ目の燃料タンクの確認をしなかったために燃料がなくなり墜落。

飛行機事故の前に、2回ほど、酒を飲んで運転してライセンスを取り上げられたことがあるようだ。そのうち1回は、車の事故で、自家用車のポルシェを飲酒運転し、事故を起こしたものだ。ジョンデンバーはどうやらかなりの酒好きで、嫌なことがあったときには酒で紛らわしするような癖があった模様。

70年代に、ものすごい数のヒットnumberを飛ばしていた。ジョンデンバーの代表曲の一つは、緑の風のアニー。彼の最初の奥さんのアニーのことを歌ったのである。内容はといえば、よくここまで、歌にするなというもの。全般的に音楽評論家のジョンデンバーに対する評価は非常に低く、かなりヒット曲を出していた時期でもフアンの声は高かったものの、
評論家たちの評価は必ずしも高くなかった。

私生活においても最初の奥さんとアニー結局離婚することになり、2度目の奥さんのカサンドラとも、最後は離婚。この飛行機事故は、この離婚の直後に起きている。

明るく優しさに満ち溢れたジョンデンバーの歌と、彼の実際の私生活は、かなりのコントラストがあり、彼の曲を通してしか、彼のことを知らない私たちフアンとしては非常に不思議な気がする。まだ、全部読めていない伝記にその答えのヒントがあるような気がする。

2006年2月 5日 (日)

サイモン&ガーファンクル

P1010003_edited

1972年4月、民主党大統領候補ジョージ・マクガバン応援コンサートで、サイモンとガーファンクルが再結成されている。上記のLPはその時の海賊版である。以下収録曲を記す

  1. ミセスロビンソン
  2. コンドルは飛んでいく。
  3. ボクサー
  4. メドレー~ いとしのセシリア 母と子の絆 バイバイ・ラブ
  5. スカボロー・フェア
  6. 59番街橋の歌
  7. アメリカ
  8. 明日に架ける橋

非常に大雑把に言えば、68年の民主党大会における警察権力による草の根勢力粉砕、映画「いちご白書」、69年ウッドストック、ベトナム戦争激化による厭戦気分が、Counter-culture勢力を押上げ、大統領候補まで作り出した。この年のニクソンとの大統領選は完膚なきまでに叩きのめされが、その後、ウオーターゲート事件を経て、76年にはカーター大統領誕生につながった。

私は、特にもう民主党一辺倒支持でもないが、このLPを聴いていると、このような時代の熱いメッセージが伝わってくる気がします。コンサート会場でカセット録音されたものがLP海賊版として出回ることが頻発していた時代がありました。S&G二人がこのコンサートで歌った「アメリカ」は、83年に後楽園球場の彼らの東京公演に三日連続通って聴いた時のものとは、はっきり違うと思う。

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