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2012年4月 1日 (日)

The Life of Phil Ochs 第七回メモ(1966年)

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Carnegie HallでPhilがコンサートをやることに賛同するプロモーターはいなかった。Philでは Carnegie Hallを満員にして、なおかつ利益をだすことはできないと思われていたようだ。だから、結局、PhilとマネージャーのGorsonとで企画し、コンサートを実行した。満員にするためGorsonのとった戦略は、チケットの価格をできるだけ安くすることと、New York Times等への広告に力を入れることだった。コンサート開催まで3週間毎日New York Timesに広告をだした。"Phil Ochs Concert in Carnegie Hall with SOLD OUT"

そして、ライブアルバムも企画された。
"Changes"や "There but for fortune"という未発表曲を収録すべきアルバムを出すべきタイミングであったことは事実だからです。

コンサートは66年1月に行われた(二日間)。声の調子がよくなかった。歌と歌の間の話はとても良かった。全体的には観客の受けもよかったようだ。アメリカ軍のドミニカ内戦への軍事介入を歌ったSanto Domingoの前に語られた話は観客を魅了した。また、When I 'm goneで歌われているPhil自身の生き方を歌うPhilに観客は聞き入った。しかし、マスコミの受けはよくなかった。とりわけ、New York TimesとVillage Voiceはこぞって「まだ、Carnegieのような場所で歌えるようになる前にPhilはコンサートをやってしまった。」と酷評した。

ライブアルバム用のコンサート収録テープを聴きながらマスコミの批評をPhilは認めざる負えなかった。このままの録音では使えないパフォーマンスばかりだったからだ。結局、New Yorkのスタジオで多くの曲を再度レコーディングすることとなる。

そして、アルバムのライナーノーツにPhilは毛沢東の詩を載せようとした。「この男は我々の敵であろうか?」と記した。レコード会社のElektraは反対した。ベトナム地域での戦争が拡大しそうな時期にこのようなメッセージではレコード店から販売を拒否されると思ったからだ。だが、現状に挑戦してゆく姿勢のPhilは断固ゆずらず、このまま販売された。

FBIのチェックが始まった。アメリカに危機をもたらすPhilは共産主義者か?米国内でFBIからみ共産主義と関連のある組織との繋がりをいろいろと調査されたが、結局のところ、"Security matter"の分類でとどまった。

1966年3月に"Phil Ochs in Concert"は発売された。Philのアルバムとして初めてBillboadのチャート入りしたものだった。Billboardの"Special Merit Pick"にリストアップされたのである。(この正確な意味は要調査。想像するにビルボードの注目LPにリストアップされたということでしょう?)。批評家たちの評判も上々だった。

この年の夏ごろから次のアルバムのアイディアがでてきた。"Pleasure of Harbor"である。このアルバムPhilは今までの音楽スタイルとは異なる挑戦をしたかった。ギターとボーカルのスタイルではなく、一曲ごとが短い映画のような曲作りをしたかった。だが、Elektraはサポートしてくれそうになかった。サポートしてくれるほどPhilのレコードは商業的に成功してなかったからだ。そして、PhilとElektraの契約更新交渉が近づきつつあった。

この年の殆どをPhilは"In Concert"のプロモーションのためのコンサートに時間を割いた。このアルバムの歌を中心のパフォーマンスを行ったが、聴衆に受けが良かったのは"Cops of World"とか"I Ain't Marching Any More.",であり、ベトナムを歌った"White Boots Marching in a Yellow Land"であった。一年ぶりに出演したNewport Folk Festivalでも同様だった。昨年のDylanの事件はあったものの、まだまだtopical songとしてのFolk fanは多く、Philは商業主義に染まっていない数少ない塞として見られていた。

Phil自身はジレンマに陥っていた。DylanのHighway 61に衝撃を受けていたし、Beach Boysの"Pet Sounds"にも惹かれていた。66年はビートルズが米ピットチャートを席巻していた時期でもあります。そして、フォークをベースとする人たちの成功があった。Mamas & Papasや, Byrds, Simon & Garfunkul, Lovin Spoonful, Chad & Jeremy, PPM等。

映画のサウンドトラックの商業主義的成功も彼を惹きつけた。「Sound of Music」,や、「屋根の上のバイオリン弾き」、マイフェアレディー等だ。

かつて映画好きだったPhilはサウンドトラックを自身でやってみたいと思うだけでなく映画に出演することすら思い馳せるようになっていた。

11月24日からPhilはCarnegie Hallの二度目の登場を果たした。今回はチケットが全て売切れただけでなく、そのパフォーマンスを批評家達は褒め称えた。1月に比べると相当成長していると・・・。どっしりとした構えで声が良く出ていたからだ。

Philのジレンマとコンサートの成功、そしてElektraとの契約更改。そのElektraは自身の次のアイディアにまったく賛同していない。マネージャーのArthur Gorsonはそれに対してうまく交渉できていない。

Arthurはアルバムのプロデュースに熱心になり始めていた。Judy & Jeanに歌わせた"Changes"が少しヒットし、彼らのアルバムには"Crucifixion"が挿入された。"Changes"をシングルで出したかったのに成功しなかったPhilにしてみれば、"Crucifixiion"まで他の歌い手にカバーされてしまったのは耐えられないことだった。

また、Arthurにしてみれば自分の道を見つけ始めたのにマネージャとしてPhilから「メガネを亡くしたから買ってきてくれ」だとか、「財布が見つからない」とかPhilから文句を言われることに嫌気がさしていた。

ついに、Philは弟のMichaelをカルフォルニアから呼んだ。Gorsonとは別の道を歩むこととし、Michaelをマネージャーとしたのだ。Elektraとは契約を破棄し、A&Mへ移籍することとなった。DylanのColumbiaへ移る話もあったが契約金があわなかった。67年は新しいレコード会社に所属することになったのだ。

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2012年3月 4日 (日)

The Life of Phil Ochs 第六回メモ(1965年)

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65年のNewport Folk FestivalにPhilは呼ばれていない。何故よばれなかったか?このLIFE OF PHIL OCHSにもはっきりとは書かれていない。彼は裏方としてこの65年の"Festival"を手伝っている。

ディランは7月25日にステージに上がり、"Maggie's farm", "Like a Rolling Stone"を歌い大音響のエレキで演奏した。「えっ、これがFolkか?」と全ての観衆が思った。Pete Seegerはアンプに繋がれているコードを斧でカットしそうなぐらい顔を真赤にしていた。観衆は野次を飛ばした。怒りの野次だった。3曲目の途中でディランは演奏を止めてステージから去り、すぐにアコースティックギターを持って再登場。

"Mr. Tamblinman", "It's All Over Now, Baby Blue"を歌い、ステージを降りた。

64年にBeatlesがアメリカ上陸し、Byrdsが65年の始めにelectric versionの"Mr.Tambliman"をヒットさせ、Pete Seegerの"Turn, Turn, Turn"もByrdsの次のヒットとなっていた時代であった。世はフォークロックへと変わっていた。エレキの曲ばかりの面とアコースティック面だけの面を並列させる"Bringin it all back home"をディラン自身もこの年の3月に
製作し、Newport'65の頃には、"Like a Rolling Stone"がヒットチャートを駆け登っていた。明らかに時代は変わりつつあった。

ディランを囲んでいた連中はどうディランの接触したらよいかわからなくなった。誰かがディランの周りにいるとディランは必ず誰かに当り散らすことが多くなった。

「君も新しい歌をみつけるべきだ、Phil。」

"Sing in for Peace"という催しものがCarnegie Hallで行われ、ディランは"Can You Please Crawl Out Your Window?(窓からはいだせ)"を歌った。PhilとDavid Blue(グリニッチビレッジのフォークシーンで活躍したひとり、イーグルスの「ならず者(Desperado)」のアルバムの「アウトロー・マン」の作者)へディランは捧げたかった。

Philは、「悪くないんじゃない?」とディランにはっきり言った。

ステージが終わり、仲間が何台かの車に乗ってバーへ行った。ディランは不機嫌になりPhilに言った。

「お前は歌い手じゃない。単なるジャーナリストだ。」
「さっさと、車から降りてくれ。」

ディランとの関係では、あまりよい話がないこの65年、Philは特筆すべき二つ曲を作っている。ひとつは、"Changes"(前回64年に作ったと書いたが誤りでした。)PhilはカルフォルニアにいるAliceとMeeganに電話越しに歌ってきかせている。Philはそれこそ100曲以上の歌を発表している。その中で、唯一、ラブソングと言えるのがこの歌。とても美しい歌です。

そして、もうひとつが、"Crucifixion(イエスの磔刑)"だ。この年の11月イギリスへツアーに行き成功を収めている。その後、カナダへもツアーに行き好評を博した。英国ツアーのマンチェスターからロンドンへ戻る車のなかでできた歌。内容は極めて難解です。PhilがJFKに捧げた曲が二つあります。前回述べた、"That was President"とこの歌、"Crucifixion"。PhilはJFKがイエスのように神の犠牲者として捧げられたのだというようなニュアンスでこの歌を歌っているような気がします(個人の感想です。本では書かれていません。)。また、Phil Pchs Lyrics Index (http://web.cecs.pdx.edu/~trent/ochs/lyrics.html)
では、ディランのことを歌っているのだと書かれています。

66年には、PhilがCarnegie Hallで歌います。ソロコンサートです。

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2012年2月25日 (土)

The Life of Phil Ochs 第五回メモ(1964年‐1965年)

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お互いの強い気持ちで結びつきあった中ではなく、どちらかが相手をリードしていたカップルではなかったPhilとAliceは結局離婚することとなった。Meeganという娘が生まれたのにもかかわわず・・・。

folkの連中の集まりに出かけてばかりのPhilではあったが、離婚に踏み切るまでは躊躇があったようだ。特に、生まれたばかりのMeeganは彼にとって特別だったから。今、読んでいる第4章の最後では出てきていないが、”In Concert"のLPの"Changes"は、AliceとMeeganとPhilの最後の別れの歌である。AliceとMeeganがカルフォるニアへ旅立つ前に作られた歌である。

1964年のNewport Folk Festivalで、Philははっきりとtopical songの盟主であることを印象づけた。First Albumの"Power and the Glory"をWoody Guthrieに捧げ、Second Albumに出てくる”Links on the Chain”で公民権運動に強いスタンスでは挑まないアメリカの労働組合の弱腰を歌った。一方のDylanはAnother Side of Bob Dylan"からの選曲。"Chiems of Freedom"で聴衆を魅了したが、多くの歌は"All I really want to do""を始めとする愛の歌だった。

この64年ごろからDylanとPhilの違いがはっきりし、お互いがお互いに批判的になる関係が始まったようだ。ただ、"Mr.Tambourine Man"を作ってDylanがはじめて聞かせたのがPhilであった件を読むと、へぇーそうなんだと思ってしまった。この歌を聴いたPhilは人の内面を歌うDylanを凄いと思ったようだ。ただ、政治は所詮bullshit(出鱈目)と主張するDlyanとは明らかな一線を画したPhilであった。

65年の2月に、Second Album,"I ain't marching any more"を発表。アルバムタイトルのこの曲はもちろん印象的だが、"That was President"でJFKのことを歌い、非常に強い調子で"Here's to the State of Mississippi"歌われている。"The bullets of the false revenge have struck us once again"で歌いはじまる"That was President"はPhilの激しい怒りの矛先がこのケネディ暗殺へ向けられている。

ただ、もっと激しい歌は、やはり、"Here's to the State of Mississippi"であろう。64年に公民権運動の集いでMississippiへ行き、その地の人種差別を目の当たりにし、それに反旗を翳すステージの歌い手を殺しかねないこの州のことを、次のように歌っている。

Oh, here's to the land you've torn out the heart of
Mississippi find yourself another country to be part of

65年はもうひとつFolkの世界の大きな波紋が投げかけられた年であった。Barry MacGuireの"Eve of Destructiion(明日なき世界、忌野清志郎さんが訳詞してます。)"が64年の夏に発売されたあと、65年にはいり商業的な成功をおさめたことだった。63年、64年のNewport Folk Festivalの大成功とtopical songが功成を極めるなかで、この曲がヒットすることによりプロテストソングにその商業的成功が影を落とし始めたのかもしれない。プロテストソングはストイックでなければならないから。

Philはマイペースだった。ただ、彼の"There but for fortune”がなんと英国でヒットしたのもこの年だった。Joan Baezが歌い、歌詞も過激な部分を少し変えてヒットさせた。

私が、もっと興味深かったこの65年の出来事は、PhilがJerry Lubin(後のシカゴ民主党大会時の7人衆のひとり)と出会っていること。このころからPhilはベトナム戦争反対の姿勢を強めていった。

そして、この年の最も大きな事件は、New Port Folk FestivalでのDylanのエレキ事件であることは疑いの余地はない。

2012年2月21日 (火)

伝記読み再開します。 フィル・オークス

2008年9月に第4回を書いてとまってしまっている、"The Life of Phil Ochs"を再開します。
こうやって宣言して、自分にプレッシャーかけて何とか最後まで読みきりたいとおもっています。

最後に書いて以来のべで100人近くの方にその記事にお越しいただいているのを見て、これはまた、始めねばと勝手に思い込むことにしました。

ショーン・ペンがPhilのことを映画化するなどという記事を読んだ記憶も蘇り、彼より先にPhilのことを書かねばと思っております。

一部の愛好家以外の方には、馴染み極端に薄いかもしれませんが、挑戦です。

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2008年9月17日 (水)

The Life of Phil Ochs 第四回メモ

63年の夏は、Folk sceneにとっては特別なPeakを迎えた時であったと言ってよいと思う。PP&Mが歌った"Blowin' in the wind"が大ヒットし、作者であるDylanが脚光を浴びることになる。彼の名前を知っていても発音できないくらい、人々にとっては突然の登場であったようだ。

63年7月のNewport Fold FestivalでのDylanは熱狂で聴衆に迎えられた。"Blowing' in the Wind", "Master of War","A Hard Rain's  A-Gonna Fall"と歌ったDylanが、初日の最後のステージで、PP&M, Jone Baez, Peter Seeger硬く腕をくんで、"We shall overcome"を歌っ
た時、それは、Folkが最も輝いた瞬間だったのでしょう。PhilはこのDylanの成功を誰よりも喜んだとのことです。Dylanの成功によってFolkが、そしてtopical songが人々に信じられないくらいに浸透していったからです。そして、この頃、PhilとDylanはとても仲が良かったとのこと。

この63年の時が、Philの初出演でした。Dylanほどの熱狂的歓迎はなかったものの、topicalな話題をユーモアを交えて歌い、時にはProtestするような南部の歌である "Talkin'Birmingham Jam"と、 Woddy Guthrieを歌った"Power of Glory", "I Ain't Marchin
Anymore", そして、黒人地位向上に身を捧げたが、暗殺されてしまったMedgar Eversを歌った、"Ballad of Medgar Evers". "Phil Ochs Live at Newport"というCDに収録されています。
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FolkがMediaで持てはやされ始めました。DylanがEd Sullivan Showに出演しました。メジャーとなったのです。"Talkin' John Birch Society Blues"という共産主義者やヒットラーを皮肉った過激な歌を歌おうとしたくらいでした(実際にはうたわず)。

ただ、二年後の65年のNewport Fold FestivalでDylanはエレキギターで"Like a Rolling Stone"を歌うわけですから、個人的な感想としてですが、やはり彼の変わり身は速い。Philは違ってます。topical songをこれからも、ずっと引きずっていきます。

もう一つ、触れなければならないこと。Philはこの63年の出演時の前から、ひどい頭痛に、文字通り涙がでそうなくらいにひどいものに悩まされることとなります。コンサート出演前になると必ず発病しました。そして、これは彼が亡くなるまで続くこととなります。

本格的なプロとして活動するためのマネージャー探しもPhilは始めます。

そんな、63年の秋にあのケネディ大統領が暗殺されます。

2008年9月 7日 (日)

The Life of Phil Ochs 第三回メモ

1960年、Philが20歳でNew Yorkへやってくる。すぐに、Jim Gloverを訪ねる。Ohioでの彼とのグループ、The Sundownersを再開させるためだった。でも、JimはすでにJeanというパートナーを見つけていたし、彼の恋のパートナーでもあった。PhilはJimのapartmentへ押しかけた単なるお邪魔虫にすぎないのだが、フォークソング作り、そして政治に夢中になったいたPhilは、まったくお構いなし。そこで、JeanがAlice Skinnerという、Broadwayの女優をめざしていた18歳の女性をPhilに紹介する。AliceはJimと同じapartmentに住んでいたため、PhilとAlice自然と一緒に暮らすようになる。

AliceはPhiladelphiaの裕福な家庭で育った、上流のお嬢様。Philは中産階級の時には汚い格好の平気なノルマン魂の無骨物。そして、さらにいけなかったのは、二人共、新天地のNew Yorkで頼れる誰かを探していたこと。どちらかがリードしていくカップルではなかった。

60年当時、East CoastでFolk musicの人気が出始めていた頃でCoffee Houseで出番を待つ若いFolksingerがたくさんいた。59年のNew Port Folk FestivalでのJoan Baezが影響していたことは、明らかだったし、DylanがNew Yorkに到着するのが61年。60年にNYで活動を始めたPhilもこの大きな流れの中にいた。

Broaside Magazineの創刊者であるGordon FriesenとSis CunninghamのapartmentにPhilは入り浸りだった。Philは政治とtopical songを広めるために、いろいろなところへ出かけていった。AliceはいつもNew Yorkのapratmentにいた。部屋代は彼女が稼いていた。当時topical songはEast Coastでの人気に限られていたので、ある時、PhilはFloridaへ行った。62年の4月のことだった。突然、Aliceが連絡してきてPhilに告げる。

「赤ちゃんができたの。私は生みたい。だから、結婚してください。」

62年の6月頃(この伝記にははっきり書いていない。)にPhilのお母さん、お姉さんが同席して結婚式をあげる。

144 その後、すぐに、Philは"Power and the Glory"を書き上げる。Woody Guthrieへ捧げた歌である。そして、63年に、PhilはNew Port FolkFestivalへ出演することとなる。プロの歌い手としてのキャリアの始まりだ。

2008年8月26日 (火)

The Life of Phil Ochs 第二回メモ

Military schoolへ入学する前、16歳のときにclarinetに熱中。オハイオのコロンバスにすんでいた時代のことである。Philの中学時代の親友であるDave Sweazyとの親交を母のGertrudeがいやがり、 Philがその頃夢中になっていたclarinetを練習時間がたくさんとれたという。当時、clarinetの第一演奏者になれるほど上手だったとか。Sweazyとの交流では、Philはたくさんの彼の写真と取っている。写真は、すでにこの少年時代から彼の趣味である。

"I ain't marchin' any more"、"There but for fortune"等の歌を、後に作詞作曲したことを考えると、高校がMilitary schoolで、結構その生活をEnjoyしていたというのは皮肉なことかも。男子校であり、女の子にはまったく無縁の高校生活であった。

その後、オハイオ州立大学へ入学(1959年)。入学後すぐ、Jim Gloverに出会う。彼はWoody GurthrieやPete Seegerを聴く若者。彼を通して所謂、プロテストソング(トピカルソング、フォークソング)に出会うことになる。後に、彼はJimとthe Sundownersというduoを結成して歌いはじめることになるのだが、その前に、Philはたくさんの政治の話をJimの父から聞くことになる。Jimの父はマルクス主義の共産主義者であった。彼の話はPhilを“家族よりも社会に興味を持つこと”に目覚めさせた。当時のアメリカの対キューバとの関係にPhilは大いに興味をもった。彼が新聞記事へ走っていく大きなきっかけとなった。オハイオ州立大学のキャンパス新聞に投稿するようになる。こうして、政治の世界へのめりこんで行く。Journalismに熱中するPhil。誰かが彼に声をかけても、それに熱中するPhil。

自然な流れとして、彼のJournalismへの傾注は、radicalなものになっていった。保守的な大学のキャンパス新聞では、掲載をいやがるような過激な論調を彼はとるようになる。

同時に、Jimとの付き合いの中でギターを覚え、作詞、作曲するようになり、Jimとグループ組むことになる。最初のグループ名はThe Singing Socialist。反マッカーシズムを歌い、Joe Hillにまつわる歌を歌い、Woody GurthrieやPeter Seeger and the Weaversもどきの歌を歌った。(参考:「ウッディーガスリー心のふるさと」1976年公開の映画で、私も彼を知り、彼の著書を読みましたが、そこまでです。この辺りの、Peter Seeger and the Weaversとなると、私も実は当時の体験はありません。)

しかしながら、このThe Singing Socialistというグループ名はすぐに、反社会主義の保守的な人々の反感をかうこととなる。招かれて歌うと、彼らに脅かされることもあったようだ。「お前ら共産主義者かと・・・。」。Jimは特にこの状況をいやがり、Philが、the Sundownersという名に変更した。オハイオの地元のCoffeehouseで歌うようになる。しかし、トピカルソングにこだわるPhilとそうでもないJimのグループが長く続くわけもなく、まず、JimがNew Yorkへ行くこととなる。Folksingerになることを夢見て。

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ちなみに、Jim Gloverは60年代初めにPhilとのDuoであるthe Sundowners解散後にJim and Jeanという男女Duoを結成、結構売れたようだ。

もう一人Philへ大きな影響を与える人物がいる。Jimと別れたあと、しばらく一人で歌っていたわけだが、その歌を聴いて興味をもった男がいた。その名を、Bob GibsonというFolksinger。彼は、topical songを歌うことは危険をともなうとPhilに教えた。なぜなら、誰もそんな歌に耳を傾けないだけでなく、そのうちに歌う場所すらなくなるというのが今の現実と教えた。60年代の初めではまだ、当時はそんな状況だったようです。そして、それだけではなく、BobはPhilのギター演奏に大いに影響を与えることになる。Philはギターの技術をBobから相当教えてもらうこととなる。
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オハイオ州立大の卒業の年、PhilもNew Yorkへ向かう。所謂、drop outである。(1961年)

2008年8月19日 (火)

The Life of Phil Ochs 第一回メモ

現在、まだ、全386ページ中の145ページ。1940年生まれのPhilが1966年にNYからLAへ移るところまで読みました。一週間の休暇中とはいえ、英語本を読むための敵がとても多かったのも事実。第一の敵は北京オリンピック。第二の敵は、ゴルフでした。

はい、言い訳です。

読破までは、まだ結構、かかりそう。そこで、読んだところを忘れないようメモとして残すべくこのブログを使うことにします。

まずは、幼少から少年時代。

Phil Ochs (oaksと発音)の小学校時代の逸話が彼の生来の性格をよく表しているようだ。

担任の先生は、Philの母親にかなりな文句をいったらしい。なぜなら、教室で彼はいつも窓の外を見ていて、先生が何度注意してもその

声に気づかない。しまいには先生が怒鳴り声に近い声でPhilの名前を呼んでも、彼は気づかない。

10代で1番好きだったのは映画、John Lehneが特に好きだったようです。

何かにのめり込んでいき、他の人が彼を呼んでもちっとも気づかないくらいになってしまうPhilの性格が読み取れます。
そして、この性格をミラー化すると、

Reheasal for Retirement Title曲の歌詞にぶち当たる。

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The lights are cold again they dance below me
I turn to old friends they do not know me

声をかけてもPhilが答えないという世界にのめりこんでいる彼の世界を逆にすrと、彼が我々に声をかけても我々には届かない。68年の

シカゴでの民主党党大会後の、彼の絶望の後に作られたこの曲とアルバムが示唆するところは、非常に深く、辛い。実際に彼の声は、軍による介入により全て抹殺された。我々には彼の声がきこえないのだ。

次回は、彼と左翼思想とのつながりから書きます。

2008年8月 6日 (水)

Phil Ochs

60年代のtopical song singerで76年に35歳で自殺し亡くなったフィル・オークス。Folksingerである、protest songを歌い続けた男。

今日、漸くPhil Ochsの伝記が手に入った。Amazonで昨年10月注文したが、結局今年の6月になって本は入荷しないことになり、たまたま、別のAmazonのルートで注文したら、一ヶ月もしないうちにアメリカからHard Coverで到着。

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There but for fortune THE LIFE OF PHIL OCHS by Michael Schumacher

全部で英文386ページ。来週は夏休みなので根性入れて読破します。もちろん、感想も書きます。予告編です。

2006年3月12日 (日)

In Concert (1) / Phil Ochs

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1965年のIn Concertが私は最も好きです。Philがとても輝いています。同じようなLive Versionとしては、Live in Vancouverが
ありますが、こちらは、シカゴでの流血の後のライブだけに、また、演奏曲目がRehersals for Retirementが中心となっており、
In Concertの明るさはないように思えます。

まあ、尤も、フィル・オクスの原点はやはりファーストアルバム"All the news that's to sing"だと思います。彼の歌のスタイルがtopical songであり、すなわち体制に問いかけ続けるprotest songであるということです。AlltheNewsそのtopical songが最も花開いた作品が、このIn Concertであるように思えます。Carnegie Hallで行われたこのLiveのチケットがSold out
したポスターの前でポーズをとる穏やかなPhilの姿がそれを象徴しているのではないでしょうか。

私のことを愛してください。だって、私はLiberalなのだから(Love me, I'm a leberal.)

もし、今いいたいことがあるなら、いますぐ、言うさ。(I going to say it now.)

Philは、センチメンタルなラブソングを一切書かなかった歌い手。もし、これがラブソングだと言えるとすれば、この"Changes"
ではないでしょうか。最初の奥さんのAliceとの別れを描いたとされる、

Your tears will be trembling, now we're somewhere else,
One last cup of wine we will pour
And I'll kiss you one more time, and leave you on
the rolling river shores of changes.

は、とても美しい歌です。

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